教育

学校建設運動

 異国で生活をしていくだけでも大変なことですが、おかげさまで私はこれまで日本を拠点に世界中へ日本のお客様を案内するツアーコンダクターとして活動してくることができました。どれほど出国するまで苦労をしても、一歩海外に出ると新鮮でたくさんの刺激を受け、心から幸せを感じます。

 それがいつしか「こんなすばらしい経験を自分だけがしていいのだろうか……」と思うようになりました。そして、その気持ちがだんだん強くなり、ミャンマーの子どもたちにもこのようなチャンスを与えたいと思ったのです。

 そして、何ができるか考え、ミャンマーの子どもたちのために学校を作ろうと決めました。というのも、当時からミャンマーでは学校が足りておらず、あっても設備が十分に整っていなかったり、老朽化していたりして教育環境に問題があったからです。

 それに、きっと子どもたちは同じミャンマーの人間が海外で働いたお金で自分たちのために学校を作ってくれたとなれば、その事実に驚き、海外に興味を持ってくれるだろうと思ったのです。


 それで、私はマンダレー市長が来日した際に学校の寄付を申し出て、その夢を叶えました。結局、私はその学校の開校式には事情があって行けませんでしたが、私の代わりに日本でお世話になっている方々が現地の学校を訪れてくれました。帰国後、だれしもが「あんな歓迎を受けたのは生まれて初めてだ」と興奮し、学校の子どもたちと先生の盛大なお迎えを受けたことを話してくれました。そして、「今度は自分たちで資金を出して、もう一つ学校を作りたい。ぜひ力を貸してください!」と言ってきたのです。

 その中に、ガダルカナル島(ソロモン諸島最大の島)とビルマにいた戦友や遺族のために作った「ガ島・ミャンマー会」という会のメンバーが何名かいました。それで、ガ島・ミャンマー会で、もう一つの学校を作ることを役員で話し合って決めました。

 さらに、自民党宮城県連でも学校を作ってくれました。当時、自民党宮城県連で海外に学校建設をするという計画を立てるとき、どの国を選ぶか悩んだそうです。しかし、「あのスーザがいるなら」ということで、ミャンマーに決めたそうです。また、建設場所を決めるときも、私が行きやすいようにということで、マンダレー地区を選んでくれました。

 その後も、「JA宮城女性グループ」、「若柳ライオンズクラブ」、「仙台宮城野ライオンズクラブ」、「国際臨済宗」など次から次へと学校建設が進み、ついに「宮城・ミャンマー友好協会」で15校目の学校ができたのです。

 結果的に私が最初の学校の開校式に行けなかったことが次の学校づくりにつながったのですが、これは皮肉のようで、何か強い因縁めいたものを感じています。



学校づくりの苦労

 「学校をつくる」というと、何か楽しいことのように感じますが、できあがるまでにはしなければならない仕事が山ほどあります。

 まずは市長と共に現場の視察をします。子どもたちが通える場所か、近隣住宅との距離や住民の生活のことなどを考慮して学校をつくるのにふさわしい環境か、下見を兼ねてじっくり検討します。


 その後、企画書を書いて、設計士に図面を引いてもらい、予算とともに文部省に申請をします。細かい事務手続きのため、何か月もやり取りしなければなりません。また、同時に建設省にも建設許可を申請します。

 その後、無事に文部省と建設省から許可が下りると、本格的に学校建設が始まります。ところが、その時期が雨季だということになると、雨季が明けるのをひたすら待つことになります。

 このように文章では淡々と書けますが、これ以外にも大変だったことはたくさんありました。基礎工事が始まってから、その場所には建設できないと言われたときもありました。それから、経費がかかりすぎて頭を抱えたこともありました。特に、目に見えない経費が電話代で、当時は国際電話の料金だけで家一軒建つぐらいのお金がかかったりしたのです。

 このようにして、やっと学校ができあがります。

 開校式には日本からのお客様もお連れします。現地では学校に通う子どもたちだけでなく、先生や子どもたちの家族、町・村の人々もみんな開校式に参加するので、学校からあふれるほどの人数になります。


 式典では、学校を作ることへの想いや、これからどのような学校として子どもたちのために教えてほしいかなど日本側と学校側からのスピーチを行います。みんな熱心に耳を傾けている様子を見ると、人々を幸せにできる喜びが胸に込み上げてきます。

 また、町や村の人々が寄って来て、

「このような地域のために尽くすあなたのことは昔からよく知っていました。心から尊敬し、愛し、応援しています」

と言われたりします。


 私はそんな言葉に涙があふれてしまい、学校ができあがるまでのすべての苦労が涙とともに流れ去っていくのです。大変でくじけそうになり、「今回で学校建設は最後にしよう」と何度も思いましたが、開校式を終えると、「また次も」と思えてくるから自分でも不思議でなりません。


学校への継続的な支援

 毎年、ミャンマーに帰ったときには、最初に設立した自分の学校と最後に設立した宮城・ミャンマー友好協会の学校には必ず訪問し、支援を継続しています。


 ミャンマーでは学校を建てたとしても、水や電気などは、また別に手配しなければいけません。それで、私が学校を訪れると、すぐに教職員から「あれがない」、「これが壊れた」と、細かいことまで次々に問題を挙げてきます。私はその一つ一つを解決していくのです。

 それから、毎年、私たちは2つの学校に通う学生全員分の文房具を用意して、日本側のゲストから手渡すようにしています。そうすることで、与える喜びと頂く喜びの相乗効果で、お互いの生きる上でのエネルギーが得られ、その大切な経験が心に残る大きなプレゼントとなるのです。


 そして、夜には先生方を招待して、日本側のゲストとの交流会を行います。

 年に一、二度のこのような交流を行うことで、子どもたちの勉強へのやる気を引き出し、先生たちの教えることへのやる気を引き出しているのです。



最高の授業

 20年以上子どもたちへの支援活動を続けていく中で、一番子どもたちの心を響かせるものはプレゼントではなく、メッセージだと気づきました。

 一つ心に残る出来事があります。

 私の学校は、生徒の努力と教頭先生や先生方の頑張りのおかげで、マンダレーでは数多くの優秀な学生を育てる有名校になっています。その学生の中で、花を売って暮らしている男の子がいました。文房具も買えないほど貧しかったのですが、毎年熱心に文房具を持って支援しているおかげで、この子は学校に通い続けることができました。

 私が企業の海外視察でミャンマーを訪問したときのことです。実業家の方々にも世界三大遺跡で有名なパガンだけでなく、私の学校とマンダレーの街を見せたいと思い、学校へ案内したことがあります。


 雨の多い8月でした。パガンからマンダレーへ飛ぶ飛行機が大雨でかなり遅れました。空港から学校までかなり距離がありました。先生方も、今日は来ないほうがいいのでは、と心配していたそうです。

 マンダレー空港到着後、強い雨の中、私たちは車で学校へ向かいました。

 ところが、途中、車のエンジンに水が入り、走れなくなってしまいました。あたりでは、洪水が起き、大量の水があふれ、危険な状況でした。

 しかし、車を捨てて引き返すことは私の頭にありませんでした。待っている子どもたちの期待を裏切るわけにはいかない。すぐにもっと高さがある車を手配し、立ち往生している場所まで迎えに来させました。

 なんとか学校までたどり着くと、びしょ濡れの私たちを見て、学生と先生たちは大きな驚きと喜びをもって拍手で迎えてくれました。

 一人の先生が生徒たちに向かって、「彼女をお手本にしよう」と言いました。

「何の義理も関係もないあなたたちのために、どうして彼女は目的を達成できることができたのか。一方、なぜあなたたちは自分のために目的を達成することができないのか。何かできないことがあったとき、必ずこのことを思い出してください」

 その先生は今でもよく言います。

「あの時、目的を達成するために諦めない姿を見せたことが子どもたちにとって何よりのメッセージになりました。どの授業よりも子どもたちにやる気をおこさせた最高の授業でした」と。


 そうそう。その後、あの花売りの少年は、見事、マンダレー大学の医学部に合格したということを付け加えておきます。

スーザ・ミョータン

スーザ|Thuzar Myo Nyunt