仕事

仕事① 実習生の通訳兼相談役

 現在、宮城と岩手で食品加工、自動車部品製造、介護施設などでミャンマーの技能実習生や特定技能外国人の通訳兼相談役をしております。

 2017年、日本で一番老舗の大きな組合の方から、月に2回ほど宮城にある会社の実習生たちの通訳とお世話をしてくれないか、という問い合わせがありました。それで、一度お会いして、その仕事を引き受けることになりました。

 コロナ禍の中、新しい制度ができて、技能実習から特定技能に切り替え、帰国せずに働けるようになりました。中には問題になるケースもありますが、彼らのほとんどは真面目に仕事を覚えてよく働きます。他の国々の若い人たちと比較するとミャンマー人は口が上手なわけではないし、(私の勝手な想像かもしれませんが)世渡りも上手くできないので、経営者からはあまり可愛がられないことも少なくありません。しかし、今は、他の国々から実習生があまり日本に来たがらないこともあり、真面目なところが気に入られ、企業側も大切に扱ってくれています。

 しかし、仕事以外の場面でも、実習生同士でのいじめや気持ちのすれ違いが問題になることがあります。彼らからすると、生まれ育った環境も違うし、食文化も違うし、教育レベルも違う人たちと一日中いっしょにいなければならないわけで、なかなかストレスのたまる生活を強いられているのです。寮でも、意気投合して全部折半して生活をする実習生たちもいれば、全部別々に支払う実習生もいます。

 また、企業側も苦労しています。特に神経を使うのは、企業の直接上司の方だと思います。言葉もよく分からない、文化も違う人々に、いくら単純作業とはいえ、危険な仕事もあるので、怪我や事故がないように注意をしながら、教えて育てなければなりません。また、その他に身の回りの世話もしなければなりません。

 ただ、企業がどの程度まで実習生の面倒を見るかというのは企業によって様々です。私は幸運にも企業や組合に恵まれて、素晴らしい人々と巡り合うことできました。そのことに非常に感謝し、やり甲斐を感じています。

 ある年、宮城・ミャンマー友好協会主催のクリスマスパーティーを仙台市内のホテルのレストランで行いました。そのパーティーに実習生も招待してあげたいと思い、会社に相談したところ、実習生はもちろん、会社や東京の組合の方々も参加してくれることになりました。

 クリスマス会は大いに盛り上がり、素晴らしい交流ができました。それがきっかけで会社の方々はミャンマーの文化や私の活動に興味を持ってくださいました。それからは、以前よりさらにお互いに敬意を持って、スムーズに仕事ができるようになりました。また、実習生たちも今まで以上にやる気を出して仕事に取り組んでくれるようになったので、結果的に問題も減りました。

 このように日本で働くミャンマー人の先輩として今までの経験を語るだけでなく、親のような立場から慈しみを持って自分の国の若者たちと接することができるのは、大きな喜びです。彼らも私の一つ一つの言葉を重く受け止めてくれます。彼らは私の日本での活動や生活などを知り、自然と心の中で私をお手本にしているのではないかと感じるときがあります。企業や組合の方も「スーザさんを見習ってください」とよく言います。

 実習生たちは、実習期間が終わるとそれぞれ次の場所に散っていきます。出発前に私のところへ報告に来てくれます。別れるのは寂しいことですが、若者が立派に成長して巣立ってゆくのを見届けられるのは、私にとってこの上ない喜びです。



仕事② ミャンマーに進出する日系企業のアドバイザー

 私は、人材紹介の会社をはじめ、建設分野、ホテル医療分野、教育分野など多くの企業の視察でミャンマーを訪れました。2011年から2020年までの10年間、コロナ禍に入り、ミャンマー行の便が飛ばなくなるまで、年に4、5回は行っていました。

 日本に来てから、視察、観光、慰霊巡拝の目的で、宮城県をはじめ日本各地のお客様を世界中の国々に案内をしてきました。ただ、長年ご案内している間にお客様もだんだんとお年を召され、身体が弱ってくると、これまでのように旅行に行けなくなりました。また、残念なことに他界された方も少なくありません。よく一緒に旅行に行っていた親しい方々とも、2011年の3月を最後に疎遠になってしまいました。

 震災後、ようやく一息ついて、寂しさと空しさを感じながら、さてこれからどうしようかと考え始めたときのことです。ある方から東北の若手経営者の勉強会で講演をしてくれないかと頼まれ、ミャンマーについて一時間の講話をすることになりました。

 講演会が無事に終わり、参加者と懇談していると、少し前にクリントンやオバマがミャンマーを訪問したという話になりました。そして、みんなで民主化に向かうミャンマーへ視察に行ってみようじゃないかという話になりました。そこで私がその段取りをして視察ツアーが組まれることになったのです。

 この視察ツアーは、これまでの仕事とはまったく違って、新鮮な気持ちで取り込むことができました。というのも、この時代のミャンマー視察ツアーは、少人数で(多くても10人ぐらい)、時間も拘束されなかったため、ツアー中に前の仕事の後処理や次の視察のための下準備や情報収集ができただけでなく、家族に会うこともできたからです。また、慰霊巡拝ツアーのように危険な場所に行く必要もないし、多くの荷物を運ぶ必要もなかったので、心身ともに軽く過ごすことができました。

 しかし、その視察からビジネスに結び付けることは非常に難しいことでした。簡単に説明すると、先進国と発展途上国との間でビジネスをするには、きちんと前提が整っているかいないかで、その後の進み方が全く違ってきます。例えるなら、生まれた赤ちゃんをお世話することから始めるか、優秀な高校生を大学に入れるためのステップから始めるか、というぐらい違います。具体的には、大企業か中小企業か、国際感覚があるか、ミャンマーの現状をどこまで理解しているか、資金の調達ができるか、などで変わってきます。

 それから、ミャンマーに進出しようと思う外国人(日本人も含む)のほとんどはミャンマーでのビジネスに関してはほとんど素人ですが、ミャンマー側も海外の企業を受け入れるのは初めてなのです。それで、海外ビジネス担当の省庁では、窓口に多くの外国人が説明を受けに並び、オーバワークの状態になっていました。そのうえ、国の方針や法律もすぐに変更になるので、今までの古い認識を捨て、新しい変化に対応しなければならないのです。

 そのようなことがあって、ビジネスを始めるにあたって申請に膨大な時間がかかり、審査時に書類が足りないということが多々ありました。日本人の経営者たちは、何度もミャンマーに足を運び、現地の状況を視察して、はたしてこのビジネスが自分の財力とリターンに見合うものかを判断します。結局、最終的にビジネスを始める段階にたどり着くのは、ほんの一握りということになるのです。

 最初から現地の企業とパートナーを組む場合もありますが、独自にやろうとしても現地の人々の力を借りないとできないこともあります。この相手と組もうと思って進んでいても、途中でもっと自分がやる事業にふさわしい相手が現れたりすると、また振り出しに戻ってやり直すこともよくあります。やはり相性がよく、実力、人脈もある人を選ぶのは大変なことなのです。ビジネスの世界では、だれもが自分が得したいという気持ちを優先しますが、目先の利益ではなく、より大きなビジョンを持って仕事に取り組む人と組むべきなのだと学びました。

 親しくしていた大使が定年退職して、まだ元気だし、現地に人脈もあるからと日本企業の人々を連れて何度もミャンマーに視察に行っていました。それで、お会いしたとき、「仕事は順調ですか」と尋ねると、

「いやぁ~、ビジネスの世界は難しくて奥深いですね。自分は今とても苦労をしていますよ。本当に省に勤めていたときのほうがずっと良かったし、仕事ができました」とつぶやいていました。

 それぐらいミャンマーでビジネスを成功させることは難しいのです。

 このように慰霊巡拝の仕事が減ってきた時代に「ビジネス視察」という形で、再び母国ミャンマーと関わる仕事ができて素直に喜んでいましたが、ミャンマーの政治の問題とコロナでそれがストップしてしまいました。しかし、私は近い将来きっとミャンマーは復活し、またこの仕事ができると信じています。



仕事③ 観光旅行

 私は旅行会社の社員として、企画・営業の仕事だけではなく、添乗員・通訳・ガイドとして50ヵ国以上の国に500回ほど日本人のお客様を観光目的で案内しました。私にとって、ミャンマーから日本に来るだけでも大変なチャレンジでしたが、世界の国々へ日本人のお客様を案内する仕事はさらに大きな挑戦でした。けれども、その苦労の先には何倍も大きな喜びが待っていることもこの仕事を通して学びました。

 まず、観光の仕事を知ってもらうために、私がどのように仕事を進めてきたか、説明したいと思います。

 最初にすることは、お客様が行きたい国々または自分が好きな国の企画を作ることです。旅行先の気候や飛行機のスケジュールなどを調べて、行き帰りの予定を立てます。次に、その国で何をするかを考えます。なるべくその町で格式のあるホテルや地元の方に評判の良いレストランなどを選びます。それから、費用を計算します。もし他の会社で同じようなコースがある場合は、費用と内容を比較しなければなりません。

 企画が完成すると、お客様を募集します。資料を送って電話や訪問して顧客を誘います。このお客さんを集めることこそが、この仕事の一番大切なポイントであり、一番大変なことであります。海外旅行に行ける方は、「健康」と「時間の余裕」と「経済的な余裕」がないといけません。その3つの条件が整っているお客様に、100万都市仙台に数十社もある旅行会社の中から、知名度も高くない私の会社を選んでいただくことは、簡単なことではありません。そこにはベルリンの壁のように厚くて高い壁があります。しかし、私は努力と忍耐力とサービス精神でその壁を乗り越えてきました。

 それから、旅行先の国のビザ申請の書類準備と作成です。ここで大変なのが日本人の添乗員が海外に行く場合と違って私の場合は自分のビザの手続きは別にしなければならないことです。

 少し話が逸れますが、外国人が日本に滞在し続けるためにはビザの更新が必要で、これまでの実績や将来の計画が必要になります。それは自分が日本にとって必要な人材であることを常にアピールしなければならないというプレッシャーにさらされることを意味します。つまり、仕事をしている限り、日本人ならしなくてもいい苦労や苦しみがずっと同行しているのです(今は永住権を取り、そのことから解放されてだいぶ楽になりました)。

 ビザの手続きが終わると、飛行機やホテル、レストラン、バスガイドなどの予約と手配をします。

 そして、お客様に最終の案内を送ります。それに合わせて、空港までの交通の手配や連絡をします。

 空港に着いてからも、空港着の荷物を受け取り、航空会社のカウンターに預けたりして、お客様に搭乗手続き、旅行日程、注意事項の説明を行います。

 出国手続きを行い、いよいよフライトです。

 しかし、出発してからも飛行機の中で、次はどの国へどのお客様を案内するかという計画を考えながら仕事をします。

 日本へ戻って来てからも、まずは電話やメールでお客様に無事帰宅したかの確認と挨拶をします。そして、1か月後ぐらいにみんなで集まって写真交換会兼反省会を開きます。楽しい思い出を振り返るだけでなく、嫌な経験なども話してもらい、それを次回の旅行に生かすように努めるのです。

 いかがでしたか。観光の仕事は一見華やかで楽しそうに映るかもしれません。しかし、実際は、旅をしながら、また次の旅の計画や段取りをしていくのです。目の前にいるお客様はもちろん大切なお客様ですが、同時にその先々の仕事を計画しないと次の仕事が上手く回らないのです。次がないと、その次もありません。だから、私の場合、体も頭も休みなしでひたすら働いていました。

 また、最初のうちは、旅行が終わるたびに寂しさを感じ、燃え尽き症候群になっていました。けど、すぐにこれではいけないと思い、次にまた会える企画を考えることでモチベーションを保ちました。それもあって、最初の10年間は月に3回は海外に行く生活を続けていました。

 このような大変な仕事を長く続けてこられたのは、お客様の笑顔と感謝の言葉のおかげとしか言いようがありません。この仕事のやり甲斐と本当の楽しさは経験をした人にしか理解できないものだと思います。一人で行く気楽な旅行もそれはそれで楽しいのですが、大好きな仲間(お客様)と一緒に世界を巡る旅は本当に人生最大の娯楽です。仲間との素晴らしい経験や楽しい思い出は私の人生を色鮮やかにしてくれました。

 私が旅行のプロとして誇りに思っていることが二つあります。一つは、これだけたくさんの旅をしたのに、一度もお客様のパスポートをなくしたことや、命にかかわる病気や事故がなかったこと。そして、もう一つは旅行を通して、お客様の人生を豊かにできたことです。



仕事④ 海外視察

 これまで政治家の海外視察、団体中央会のミャンマー経済視察、東北電力の海外での技術セミナーなど視察を目的とした数多くのツアーをコーディネートしてきました。

 その中で特に思い出深い二つの出来事を紹介したいと思います。

 旅行会社に入って一年が過ぎた頃、宮城県自民党青年議員の海外視察ツアーのコーディネートを任されました。政治家の先生方が実際に自分の目で発展途上国を見て回り、その国の発展のために政治や経済の面からどのように支援できるかを考えるためのツアーです。このような大きな仕事をなんとミャンマーから来たばかりの新人の私が担当することになったのです。

 ツアーは最初から困難の連続でした。まず、そもそもその頃のミャンマーでは政治家という肩書では入国が認められておらず、ビザの申請から苦労しました。

 成田から飛行機に乗り込み、ヤンゴン空港に到着しましたが、まだ緊張は解けませんでした。入国手続きを済ませて税関を抜けると、父と付き合いのあった日本大使館の武官が出迎えに来てくれていました。その顔を見たとき、ほっと胸をなでおろした記憶があります。

 しかし、トラブルはまだまだ続きます。当時、ヤンゴンではインヤレークホテルが唯一のホテルでした。言うなれば、日本の帝国ホテルのようなところ、と胸を張って言いたいところですが、実際はひどいもので、

 「シャワーからコーヒーのような茶色い水が出た!」と斉藤正巳先生が渋い顔をされるのを見て、心苦しく思ったものです。

 私は先生方を両親の自宅に招待したり、ホテルのキッチンでおにぎりを握ったりして、できる限りミャンマーに良い印象を持ってもらえるよう努めました。

 そして、いよいよツアーが終わるという頃になって、私は緊張から解放されて、大失態をしでかしてしまいました。もう日本に到着し、あとは成田から仙台までバスで移動するだけというときに具合を悪くしてしまったのです。お腹をおさえる私を見て中沢議員は、桜井議員に「けんちゃん、これは盲腸だ!」と慌てて119番に電話をかけさせました。私は救急車で運ばれながら、最後の最後で倒れてしまった自分を情けなく思い、もう二度とこんな大きな仕事は任せてもらえないだろうと悔し涙を流しました。

 ところが、自民党の先生方は、そんな小さな器ではありませんでした。その後も、毎年、海外視察ツアーの担当に私を指名してくれたのです。また、それだけでなく、日本にいて国の親戚や友人に会えない私のために、これからの人生で寂しい思いをしないようにと、10年前にいっしょに「宮城・ミャンマー友好協会」を立ち上げ、仲間づくりにも協力してくれました。そして、日本とミャンマーの架け橋となり、有意義な活動を行うという使命を私に授けてくれたのでした。今の自分があるのは、まさにこの仕事のおかげだと言えます。

 もう一つ印象深い出来事は、それから何年か経ち、仙台経済同友会の視察ツアーでミャンマーを訪れたときのことです。

 経済同友会の村松団長と手嶋副団長は、熱心に現地を見て回る中で、「ミャンマーはどこかの国が本気で助けないと、なかなか豊かになりません。国民が大変気の毒ですから、どなたか偉い方に日本の経済や良いところを学びに来てほしいものだ」と語っていました。これが後に、ミャンマーの古都マンダレーの市長を日本に招待することにつながりました。

 マンダレー市長は、来日した際に、日本の衛生的な環境や人々のおもてなしに感激し、しまいには「もう国へ帰りたくない」と言い出すほどの歓迎を受けました。そして、その市長が日本を離れる前の日の晩、盛大なお別れパーティーが開かれました。そこで、私は人生を左右する大きな決断をしました。

 実は、私は長い間ずっと「ミャンマーに学校を作って寄付したい」と思っていたのです。日本に来たとき、戦時中ミャンマー(ビルマ)にいた日本の方々は、私のことを自分の家族のようにとても大切にしてくれました。その方々は、「日本に生きて帰って来られたのは私の母をはじめ、ミャンマーの人々が助けてくれたからだ」という思いを抱いていました。それで、今度は私がその人たちの代わりに、感謝の気持ちを形にしたいと思っていたのです。また、それだけでなく、学校を作ることで、私のように日本に来られるチャンスをミャンマーの子どもたちにも与えたいと思っていました。

 立派な経済界の方々が集まっているこの場なら、ステージの上から「みんなで小学校を寄付しましょう」と呼びかけ、賛同を得て、みんなでお金を出し合って、喜びを分かち合うこともできるのでは、とも思いました。しかし、もし反対する方が現れたら、この計画は水の泡となってしまいます。葛藤しましたが、時間はありません。マンダレー市長が帰国してしまえば、いつまた次のチャンスが巡ってくるかわかりません。そのとき、胸の奥から「私がやらなきゃ、だれがやる!」という気持ちがふつふつと湧いてきました。

 ステージに立った私は勇気を振り絞り、「私はミャンマーに小学校を寄付します!」と言って、つかつかとマンダレー市長の方に歩いて行って目録を手渡しました。すると、会場は一瞬シーンとなりました。しかし、直後に割れんばかりの拍手が起こったのです。あちこちから歓声が上がり、振り返ると、「ミャンマー国民に最高のお土産ができました」と市長が満面の笑みを浮かべていました。

 こうして、1997年にマンダレー市に一つ目の小学校を建設することができました。その後、私が学校を寄付することになった経緯やミャンマーの実情を知った団体や個人の方々から次々と支援したいという声が上がり、さらに14校の小学校を新設することができました。

 このときのことを思い出すと、今でも胸が熱くなります。そして、その場とタイミングを逃さず、勇気を振り絞って行動に移した若き日の自分を褒めてあげたいと思うのです。