家族

両親

 私が両親からもらったものは、優しさ、素晴らしい経験、人々が困っているときには全力で助けるものだと教えてくれたことの3つです。

 一方、私が両親に恩返しできたことは、学校で良い成績を取ったこと、親離れして自立したこと、親が病気になったときできる限り支えたことの3つです。

 私はミャンマーの国民文学賞を授かった父と理科の教師である母のもとに生まれました。

 父はアメリカ大使館の政治アドバイザーとして長年勤めていましたが、アメリカへの異動の話が出たときに仕事を辞めました。というのは、私たち家族が同行したくないと反対したからです。父は仕事や名誉より家族を大切にする人でした。

 その後、読売新聞の記者、さらには日本大使館の相談役を務めました。新聞記者としてアメリカ、ドイツ、イタリア、オーストラリアなどの大使とも親しいお付き合いをしていました。

 また、父は作家として『日本人と文化』と『日本人の本当の姿』という2冊の本を出版し、日本とミャンマーの友好を深めました。『日本人の本当の姿』という本の最初のページには以下のようなメッセージが書いてあり、日本語訳も添えてあります。

 親が犯した罪は、現在の子どもたちとは関係がない。そのことを信じる人々のために、私はこの本を書きました。

 父はミャンマー国民に日本に良い印象を持ってほしいと思い、この本を書いたそうです。

 「『自分たちが起こした戦争ではないのに多くの被害を受けた』という国民がいるのはわかる。しかし、それは戦時中のことなのだから、やむを得なかった面もあるだろう。私が伝えたいのは、『日本人の本当の姿は美しい』ということなのだ」

 父はミャンマー国民が尊敬する代表的な作家でした。一本の筆で国民の理性を目覚めさせる【文学の力】を持っていました。それで、日本政府から国賓扱いで招待を受け、一か月ほど通訳付きで日本各地を訪れたこともありました。

 そんな父は、日本はアジアで一番経済が発展した国になるはずだから、ミャンマーも共に発展していってほしいと望んでいました。ミャンマーから見ると、日本は地理的な面でアメリカの半分ほどの距離に位置し、頻繁に行き来することができるので、パートナーとなるのにふさわしいと考えていたようです。

 高校生になった私にも家庭教師を頼んで日本語を学ぶ機会を与えてくれました。当時のミャンマーでは外国人と接することがとても難しい時代でした。ところが、私の家には毎日のように外国のお客様が来ていました。その中でも特に多く出入りをしていたのが日本のお客様でした。ミャンマーでは新聞記者は外交官と同等の扱いを受けていました。そのため、各大使館の記念日などで情報交換や交流を含めた社交場には、両親は必ず招待を受けました。父はそこに娘である私も同行させました。そのおかげで、今でも私はどこの国の大臣や大使とお会いしても、緊張しないで自然体で接することができます。

 また、父はそのようにいわゆるVIPと特別なお付き合いをしていた一方で、恵まれない人々にも優しく接していました。隣の家の9人家族には、7人の男の子がいて、とても貧しい暮らしをしていました。それを不憫に思って、何十年も毎日のように食事の世話をしてあげたり、その子たちを学校にも通わせてあげたりしました。ただ家が隣にあるというだけでそこまでしてあげる父を誇らしく思っていた私も、やはり困っている人が近くにいると放っておけない性格に育ちました。

 父は母の家族の面倒もよく見ていましたし、仲間や友人の借金を代わりに返済をしてあげたことも何度もありました。そのような人間でしたから、多くの人に頼られ、人望もありました。それもあって、日本大使館では、問題に直面したときは、まず父に相談すれば間違いないと言われていたとか。

 父は私が30歳のときに入院し、私が仕事でミャンマーに滞在しているときに、ヤンゴンの病院で息を引き取りました。元気なうちから「来世もあなたとまた出会うから、悲しまないでください」と語っていました。また、父は「生まれ変わったら、日本人になりたい」とよく口にしていました。それで、日本大使館と日本人会の許可をいただき、ヤンゴンオッカァパ日本人墓地に埋葬させていただくことになりました。

 戦時中にミャンマー(ビルマ)で亡くなった日本兵5万人のお遺骨を日本に帰すために尽力し、それに関わった日本人を親身になって支えて続けた父は、歴史に残るほどの親日家だったと言えます。

 母はミャンマーの南にあるムドン出身です。ムドンは、第二次世界大戦時、日本兵が泰緬鉄道に乗って国へ帰るまで駐在していた場所です(泰緬鉄道は太平洋戦争中にタイとミャンマーを結んでいた鉄道で、旧日本陸軍によって建設・運行されていました)。

 戦時中にもかかわらず、母の実家では毎日のように日本の兵隊さんが夕方になるとやってきて、「おかあさん、帰って来たよ!」と祖母に声をかけ、いっしょに晩ご飯を食べていったそうです。彼らは、国に残した家族や幼子のことを思い出しては、家庭のぬくもりを求めて通っていたようです。食事をするだけでなく、母に日本語を教えたり、軍歌を歌ったり、良い関係だったと聞いています。

 そのような交流を続けている間に終戦が近づいてきて、ある日、今まで親しくしていた兵隊さんたちが突然いなくなってしまったそうです。

 母の家族は心配して彼らを探しました。すると、川の向こうにイギリス兵に捕らわれている彼らを発見しました。しかし、逃がしてあげるわけにもいかず、こっそり食品やタバコなどを届けにいきました。

 それからしばらくして、兵隊さんたちは母の自宅に飛び込んできて、

 「イギリス軍に殺される前に逃げて来ました。これから、すぐに泰緬鉄道まで逃げます。しかし、徒歩では逃げ切ることができません。お宅のトラックを貸してください」と頭を下げました。

 母の実家にはトラックが2台ありました。しかし、それは商売に使う大切なものでした。祖父が返事に困っている間に、彼らは祖母に何かを渡し、トラックに飛び乗り、あっという間に走り去っていってしまいました。

 命がけの逃走を前に、母は黙って見ているしかなかったと言っていました。

 彼らが祖母に手渡したものは、大切にしていた万年筆と写真、そして、トラックは戦後に必ず賠償することなどを書いた手紙でした。祖父はその一式を大切に持っていて、ずっと自分の2台の車はいつかきっと戻ってくると信じていました。しかし、戦後、家が火事になったとき、その一式は燃えてしまい、祖父母はずっと悲しんでいたそうです。

 そのことにまつわる後日談があります。祖父が嫁いだ母に会いにヤンゴンにやって来て、そろそろ帰ろうとすると、父がまじめな顔で

 「まもなく2台の車を返すという件で、日本から関係者が来ると連絡が入りました。お義父さん、申し訳ありませんが、もうしばらく滞在してお待ちいただけませんか」

 と冗談を言って引き留めようとするのです。

 実は、父はその兵隊さんたちを探したことがあったそうです。アメリカに行く途中で日本に寄って調べたところ、彼らは日本にたどり着く前に泰緬鉄道で亡くなってしまったとわかりました。祖父母はすでに他界していましたが、母はひどく落ち込んだそうです。ただ、そのようなこともあって、父は日本の大使館と仕事をしているときに、文化交流の一環として、我が家に日本からの慰霊巡拝団を招くようになりました。


 最後に、両親のことがよくわかるエピソードを一つ紹介します。

 私の学校が夏休みになると、両親はよく西側のアラカン州にあるガパリビーチに連れて行ってくれました。父は気前よく、家族だけでなく、お手伝いさんも連れて行き、静養させてあげました。

 ある日、バンガローで働いていた料理人の息子が、耳が不自由なことがわかりました。それを父はほうっておけず、ガパリからその料理人の家族を全員ヤンゴンに連れて来て、息子を市内の病院に入院させ、治療を受けさせてあげました。

 退院後、料理人の家族は仕事があるのでガパリに帰りましたが、息子はしばらく通院しなければならず我が家に一人残ることになりました。

 やがて彼の耳は少しずつ良くなり、地元に帰る日が近づいてきました。小さかった私はそんな彼に、

 「この家はあなたの別荘よ。お母さんに遠慮して『帰る』なんて言ったら、ダメだからね。父がいいと思って連れて来たんだから、遠慮しないで暮らしてね」

と言ったのです。

 ところが、母に聞こえないように小声で言ったものだから、彼にはそれが聞き取れません。そこで私はもう一度同じことを言いました。今度は私たちがいた二階から一階にいる母に聞こえるほど大きな声でした。

 そのときのことを母もよく覚えていて、それを聞いて「ああ、この父にして、この娘か」と苦笑いし、その男の子の面倒を最後まで見る決心がついたそうです。

 このように父はよく困っている人を助けようとするのですが、結局、細かいところまで世話をするのは母の役目でした。それで、母はときどき父が人助けをするのを嫌がることもありました。ただ、母は最後まで父が決めたことには反対しませんでした。それは、きっと母の意地ではなく、愛情なのだと思うことにしています。

ちなみに、2019年にミャンマーに行ったとき、その男の子のことを思い出して、ガパリまで会いに行きました。本人を前にして「私がだれかわかる?」と聞くと、すぐに「スーザだ!」と目を丸くして喜んでいました。

 ちなみに、2019年にミャンマーに行ったとき、その男の子のことを思い出して、ガパリまで会いに行きました。本人を前にして「私がだれかわかる?」と聞くと、すぐに「スーザだ!」と目を丸くして喜んでいました。

 あのときから長い年月が経っているのに、よく覚えていたと驚きました。そして同時に、まだ不自由ではあるけれど、彼とこうやって会話ができるのは両親のおかげだと改めて思ったのでした。


娘について

 私は、幼なじみのヤンゴン国立医学部教授の外科医と結婚し、娘の桜を授かりました。その頃、彼はアメリカで医師の資格試験に合格し、家族でアメリカに移住しようという話になりました。

 それまで、桜の父親として将来の道が開けるように、仕事が軌道に乗るまで生活やビザの手続きなど一切のことを私が担っていました。しかし、私は日本での仕事にやり甲斐を感じていたため、新しい環境に移ることにためらいを感じていました。また、せっかく仲良くなった日本の方々とは別れがたく、今後のミャンマーへの支援のことや、母国ミャンマーの家族とさらに遠くなることを考えると、やはりアメリカへ渡る気にはなれず、娘と日本に残ることを決めました。


 こうして赤子を育てながら働くという道を選んだわけですが、その当時の日本では、まだひとり親に対して世間は冷たい目で見るところがありました。それでも私にとって娘の桜はかけがえない宝であり、支えでありました。

 桜が大人になってから、当時のことを思い出して「ひとり親で迷惑かけたね」と言うと、娘は決まって「ううん、大丈夫。ママと二人で楽しかったよ」と笑顔で返してくれます。娘は東京の大学を卒業し、現在会社勤めをしながら、幸せな暮らしを送っています。

 子育て中は猫の手も借りたいほど忙しい毎日でしたが、こうやって立派に娘を育て上げることができて、ほっとしています。もちろん本人の努力もあったからでしょうが、振り返って見れば、日本とミャンマーの家族を含め、周りの方々の支えがあったからこそできた奇跡のような子育てでした。

 高校でお世話になったなおこ先生、事務の菊地さん。海外出張のとき、面倒を見てくれた門脇ママ、江口さんご夫妻、菅井さんご夫妻、阿部順一さんご夫妻、加藤さんご夫妻。改めて協力してくださった皆さまに感謝申し上げます。

 その他にも、特に印象に残っているのが鳥取に住んでいるラングン日本人学校の校長先生と奥様です。いつもクリスマスの前の日に日本を出発しますが、子どもも冬休みに入ります。奥様が「飛行機の中で子どもに悪戯されてもいい」という条件で、子連れ添乗をさせていただきました。その結果、何倍も疲れてしまいましたが、校長先生の賢さと奥様の優しさが心に染みました。

 そうやって幼い頃から海外に行くというのは、娘にとっても貴重な経験だったようで、娘自身も当時を振り返って、「よくあんなことができたね。自分には絶対にできないよ。全部、ママとみんなのおかげだね」と言っています。

 人は多くのことを経験しないと、他人の痛みがわかりません。結婚しないと結婚した人のことはわからないし、離婚しないとその立場にいる人のことはわかりません。同じように、女手一つで子育てをした人でないと、きっと私の正直な気持ちもわからないのではないかと感じます。

 私が自分の子育ての辛さを表現しようとして、「鉄砲持って戦場に行ったほうがまだまし!」と言うと、みんな爆笑します。しかし、夫と別れたことは後悔していませんし、辛いことより、幸せなことのほうがたくさんあったような気がしています。

 ときどき娘と二人で「寝ないで首脳会談スタート!」と言って、朝方まで人生相談をしていると、このまま永遠に語り合っていられるような気がします。そんなとき、私は「これも家に男性がいないからできる女の自由だね。こんな辛い目にあっても、辛い目にあったのが私だったからよかったのよ。別な人だったら、最終的にこんな結果にできる可能性も非常に低いから、あなたの母親が私でよかった。よかった」

と言っています。

 そして、娘が帰っていくと、今度は一人きりの幸せを思う存分味わうことにしています。

スーザ・ミョータン

スーザ|Thuzar Myo Nyunt